阿部和重
90年代に最も公開が待ち望まれた映画のひとつが、エドワード・ヤンの『恐怖分子』だった。『牯嶺街少年殺人事件』への熱狂とともにあの時代をすごしたわたしたちにとって、その前作に当たるきわめて戦慄的なタイトルを持つ傑作は、天才の映画としか言い様のない張りつめた画面の連続性と断続的な時空間の再構成を成し遂げていた。窓から窓へと飛び火し、彩りを変え、反映をつづける光のぶつかり合うサスペンス。光は、どこにでも射し込むからこそ、「恐怖」の感染拡大を起こすだろう。21世紀の今日においてもなお、それを食い止める術はない。

 

久保玲子
今年のアカデミー賞を独占した『バードマン』を観ながら、『ヤンヤン 夏の想い出』のことを想っていた。ニューヨークのような派手な舞台も、いかにも売れそうなサントラもないが、台北の小さな共同体を世界の縮図とし、老いも若きもそれぞれに悩みを抱え、そんな自分と向き合うことの難しさと、眼に見えないものをスクリーンに漂わせて陶然とさせる傑作のことを。イニャリトゥは、この『ヤンヤン、夏の想い出』に憧れているのではないか、そう思えてならなかった。いや、待てよ。『カップルズ』や『エドワード・ヤンの恋愛時代』にも、そして当然『牯嶺街少年殺人事件』にも。そして何を今更と頭を掻く。ヤンの鬼才がスパークしたこの夜明けの銃声が衝撃の火蓋を切る『恐怖分子』に、世界はいまだに恋い焦がれ、嫉妬しているのだと。

 

坂本龍一
この映画は視覚の歓びに満ちた、動くモダンアートだ。しかしその歓びは楽しさだけではない。異様なまでに冷たく、犯罪の匂いのするヒヤリとした鋭利さがあるのだ。長い沈黙、舐めるような視覚の動き、クローズアップ、逆光、それらを、時系列を交差させながら、重層的に紡いでいくミステリー仕立てのストーリー。どこからが現実で、どこからが夢想なのか、見ているのか、見ていないか分からない。矛盾するようだが、ぼくたちの、そして映画の視覚性を問うている不思議な映画なのだ。

30年近くの時を経て、この映画を目にすることの歓びを多くの人に味わってもらえたらと思う。そして、59歳で亡くなったこの天才監督の全ての作品を収めたボックスセットがリリースされることを強く望んでいる。

 

鈴木了二
ありふれた都市を描いてこれほど光と色彩の溢れた映画はあっただろうか?都市感の輝きにおいてそれ以前には無かったし、わたくしの知るかぎり、それ以後も未だ存在していない。

しかもその都市はニューヨークでもなければパリでもなく台北だ。東京と極めて間近にあるこの都市でこんなに美しい映画が撮れるとは思ってもいなかったから、30年近くまえバブルの加速する東京で観たときの衝撃は今でも生々しい。台北はエドワード・ヤンのおかげで現代を体現する世界屈指の都市となった。

駆使された映像には粗い粒子のモノクロのスティル写真から、赤、緑、黄色などの原色をなめらかな白や、底なしの黒のなかに象眼細工のように組み込むカラー画面にいたるまで、すなわち映像だからこそできうる可能性が一分の隙もなく刻み込まれている。映画と写真の奇跡のような出会いだ。しかもこの映画の台北が現代的であるのは、この数年のあいだに21世紀の世界が帯び始めた不気味さ、あるいはサスペンスを早くも映像化しているからだ。そのうえワン・アンという女優の演じる不良少女シューアンの物質的存在力は「勝手にしやがれ」ジーン・セバーグの現代版ではないか。エドワード・ヤンの残した映画はどれもが傑作だが、ぼくにとって「恐怖分子」はなかでも特別なのである。

 

滝本誠
壁に飛び散った血飛沫に、格別の味わいがある。単なる赤といった手抜きではなく、繊細な線と色の飛沫の妙味。リアルというよりもアブストラクトな、たとえばサイ・トゥオンブリーのドローイングが壁に出現したかのようであった。トゥオンブリー作品の秀作コレクションは、まさに台湾の富豪(ヤゲオ財団)のところにある。また、この飛沫を精神の嘔吐画とみなした場合、映画のラストのたたみかけに接続される、といっていい。ともかく、飛沫のデザインにエドワード・ヤンは、美術監督ともども、すばらしい創造性を発揮し、この飛沫、飛散がもたらしたような、夢と覚醒のクロッシングにもただならぬ冴えをみせる。<恐怖分子>はどこにも転がっていて、われわれを不意に追いつめ、破滅させる<吐き気>である。

 

富田克也
『牯嶺街少年殺人事件』を今一度スクリーンで観たいとずっと思ってきたけれど、今は、映画を作ることだけじゃなくて、観ることだって自分たちでやらなけりゃダメだ、と思い立って先輩諸氏に話を聞いてみたら、本当にたくさんの人たちが『牯嶺街少年殺人事件』をやりたいと思っているということを知った。これまで自分たちが名作の数々を観ることができたのは、そういう思いのおかげだったんだとよくわかった。だからやっぱり自分たちでやるしかないと、観せたいというより、まずは自分たちが観たいという一心で、その時点で可能だった『恐怖分子』を一夜だけ空族特集の中で上映した。劇場に枠を空けてもらい台湾の権利元と交渉し一回上映という条件で料金を払ってフィルムを借りた。

そのオールナイト上映の夜、会場は地べたが見えない程、人で埋めつくされた。人々の“観たい”という思いが集結しているのを目の当たりにした。

今はかつてとは違う。“誰か”はやってくれない。いや“誰かひとり”では難しい。だからまずは『恐怖分子』の再公開を喜び大騒ぎにすればいい。観たい映画を観るために、まずは映画を劇場に観に行けばいい。それが私たちに残された最後にして最良の道なのだ。

 

樋口泰人
早朝の薄明かりの中、窓際に立った主人公のひとりが窓を開けると、朝の空気がすうっと流れ込んでくる。台湾の朝。その風になびく白いカーテンの揺らめきは、それを観る誰の目の中にも、そのときその場所のあの風と同じ風を送り込むだろう。その風はどんな匂いがするだろう。そして、そこからはどんな音が聞こえてくるだろう。映画が始まる。揺らめく白いカーテンが、語る物語。目は耳となり鼻となり、その物語を聴き、臭いを嗅ぐ。決して気持のいい物語ではない。朝の風の中には、たっぷりと、夜の闇の名残が含まれているのだ。血の匂いと言ってもいい。若者たちの物語でもあり、若者には戻れなくなってしまった者たちの物語でもある。過去と未来の面影が、いつしかわたしたちを包み込む。わたしたちはこんな過去をもっていたかもしれないし、こんな未来をもつことになるのかもしれない。そんな過去と未来の残像としての現在が、そこにある。わたしたちの生きる時間のすべてがこの映画の中にあるのだ。

 

船橋淳
ある国の首都が、たった一人の優れた映画作家の手腕によって、こうも映画的な輝きと陰鬱な翳りを湛えた奥行きのある劇空間に変貌してしまうものなのか、と羨望と嫉妬を抱きつつ、こうなったら一フレームたりとも見逃すまい、いやむしろこの上映こそ絶対に終わって欲しくない、いつまでも続け!と不条理な呪詛をスクリーンへ向かって念じつつ目を皿のようにして視線を注ぐという作品に、私は「恐怖分子」以降出会えていない。一本の映画が、同時代とそれ以降のあらゆる作品へ批判的言説として機能し、「こんな映画が存在しているのだから、もはや下手なものは撮れない」と他の作り手を沈黙させてしまう映画の存在を超えた映画・・・それはつまり、時代を「エドワード・ヤン以前」と「エドワード・ヤン以後」に二分する映画史の分水嶺である。

 

四方田犬彦
『恐怖分子』は現在の台湾映画が到達した、最高峰の作品である。東アジアの大都市がこれほどまでに孤独で、迷路のような様相を呈していることを描いたフィルムは、これまでになかったし、今後もありえないだろう。すべての人間は名前も人格も奪われ、偶然のままにさまよっていく。さながら紙や藁で作られた人形のように。